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5-2 データ



[データ1] 阪神・淡路大震災における避難行動

阪神・淡路大震災における、住民の避難行動に関するアンケートによると、避難方向の決定要因として、「ふだん最もよく通っている道の方へ行った」「とにかく目指している避難所へ向かった」という回答が圧倒的に多くなっています。つまり、火災危険性などの周囲の状況判断よりも、日常から暮らしなれた場所、使いなれた道を選択したことがわかります。

一方で、最近の地震災害時における住宅密集地域を対象とした延焼シミュレーション研究の成果などをみると、延焼が大規模に拡大しつつある場合、たとえ遠回りであっても、幹線道路など大きな道路を介して避難所へ向かうほうが、結果として最も早く避難所へたどりついたという結果が出されたケースもあります。

地域で被災した場合に、どのように避難所へ向かえばよいのか、さまざまな状況を想定し、可能性のある複数の避難経路を実際に歩いておくことが重要であるといえます。

避難方向の決定要因・避難所を探索した手がかり
[データ2] 災害時における避難体験
●三陸海岸津波から(昭和8年、死者2,995人・負傷者1,096人)
「私は、地震の後いったん妻と一緒に(高所にある)大杉神社の境内へのがれたが、まだみんなが揃わないので家に引き返した。母は、「なあに、心配はないよ」と平気でおり、物知りの古老たちも心配あるまいというので、ほっと安堵し、家族そろって家に入ろうとすると、その時「津波だあ!」という鋭い叫び声がした。私は、母の手をとって逃げ出したが、波に追われてとうとう母と一緒に海中にまきこまれてしまった」(『三陸海岸大津波』吉村昭著(1984)112頁より)

●阪神・淡路大震災から
「1月17日早朝、突然の激しい音と揺れで床の上に座る。「何?」心の中で叫ぶが声が出ない。体は大きく激しく揺さぶられるがままに自分ではどうすることもできない。〈中略〉枕元の仕事着を引き寄せ身に着ける。脱出準備だ。二階から外をみる。息を呑む。地獄だ。市場の真裏の家は向かいの玄関まで移動している。通路はない。瓦礫で山盛りだ。家と家はぶつかり合い通るすき間さえもない。主人が瓦礫につまずいて何度も転び、あとで気がつくと大きな靴に血が流れていた。〈中略〉近くの福祉会館に避難する。道には人々が右往左往し、あふれ返っている。パジャマ姿の人。靴もはいていない人。毛布を巻いている人。顔見知りの人々と生命のあることを喜び合い、そしてみな無言で座りこむ。会館の窓も障子も真っ赤に染まる。御蔵小学校へ避難するようにと誘導される。ふり返ると菅原市場はすでに火の手が上がっていた。わたしの家の辺りだろうか。何一つ持って出られなかった」(『阪神大震災被災した私たちの記録』阪神大震災を記録しつづける会編(1995)88頁より)