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2006年2月

5.新潟県集中豪雨・中越地震その後 第3回(婦防リーダーマニュアル作成委員 全国地婦連 浅野幸子)

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 2004年に、豪雨水害(7月)、新潟中越地震(12月)と、大規模災害に見舞われた新潟で、 一年経った様子について、婦人防火クラブをはじめとしたみなさんのおはなしを聞き全国におつたえ しているこのレポートの3回目は、豪雨水害と中越地震の被害を受けた旧栃尾市の様子をお伝えしま す。
*注:取材当時は栃尾市は合併していなかったことから、混乱を避けるため文中では基本的に、栃尾 市、栃尾市消防本部と表記させていただきます。

■栃尾に婦人防火クラブをたずねて

栃尾市内の土砂崩れの様子(撮影=朝日航洋株式会社)
 2006年1月1日に長岡市と合併したばかりの旧栃尾市 は、長岡市の東の少し山間に入ったところに位置しています。 人口は2万5千人弱で、コシヒカリの生産を中心に農業が盛ん で、また繊維工業、日本酒、そして大きくて厚みのある「栃尾 油揚げ」が有名です。またこのあたりは豪雪地帯でもありま す。
 2004年7月12日夜から13日にかけて、発達した梅雨 前線の影響で新潟県内は中越・下越地方を中心に、局地的に1 時間に50ミリを超える豪雨に見舞われました。
 特に栃尾市の13日午前0時~午後8時までの降水量は414 ミリで、1日に降る水量の統計を取り始めて以来、県内最高だ ったそうです。
 栃尾市消防本部の観測記録によると、市の中心部の大町では12日の夜8時ごろからぱらぱらと降 り出した雨が、13日(火)朝になって突然激増して豪雨となっていることがよくわかります。
 栃尾市消防本部では7時ごろから調査を開始して8時には警報を出しましたが、その頃にはすでに 床上浸水の被害が出始めるといった状況で、400年に一度の豪雨といわれるように、予想を超えた 事態に対処しなければならかったことがわかります。

 市の中心部を流れる、普段はおとなしい西谷川は一気に増水し、市役所前の橋を越えるほどの水の 勢いとなってしまいました。国道290号線を中心に、市内10ヶ所以上が通行止めになり、孤立集 落も出ました。
 また悲しいこ とに、北荷頃地区では裏山が崩れて見回り中の83歳の男性1人が生き埋めとなり亡 くなっています。
 13日ほどの規 模ではないものの、同じ様な現象は17日(土)にも再現していますから、住民の みなさんの当時のおどろきや心労がうかがわれます。
 栃尾市は川の上流部に位置するので、普段は雨さえ 止んでしまえば問題はないのですが、今回の豪 雨では、街中も水浸しになったことと、また山間地の棚田が土砂で潰れるといった被害の影響が大き かったそうです。また小さな水路を崩れた土砂が埋めることで水が溢れ出し、家屋を浸水の被害に導 くケースもありました。
 さらにお話をうかがう 中で話題となったのは、森林の整備を維持することの難しさによって、災害 に弱い山林となってしまい、土砂崩れを起こしやすくなっているのではないかということでした。防 災だけでなく、環境の観点からも災害は見ていく必要がありそうです。


栃尾市消防本部で水害当時の様子や
普段の活動についてお話くださった
婦人防火クラブのみなさん
*婦人防火クラブの活動
 栃尾市には婦人防火ク ラブが3クラブ(栃堀地区、北荷頃地 区、大野原地区)、幼年消防クラブが7つあります。特に家庭 における防火活動に力を入れており、春と秋の火災予防活動で は消防署と協力し合いながら、啓発活動に取り組んでいます。 栃堀地区婦人防火クラブでは、春と秋の2回、地区以外もふく めて広範な範囲にわたって、車に乗って防火の呼びかけをして います。また、地域で防災訓練を実施するときは、互いの地域 の訓練にも参加して炊き出しの手伝いをしたりと、積極的に交 流・協力するようにしています。
 水害当日ですが、急激な増水に 婦人防火クラブの方も含め て、お仕事で家を出ていた方は迂回するなどして自宅に戻るの にもかなりご苦労なさる状況で、電話も通じなかったそうです。高齢者を抱えたり、床下浸水などに あいながらも、みなさんご自宅の片付け、ご飯の支度などに奮闘されています。
 また中越地震では、最大震度6弱の強い揺れを観測していますが、幸い全体としては大きな被害は なく、またプロパンガスでお米など食料もあったので助け合い、近所のビニールハウスに高齢者を避 難させてあったりして乗り切りました。

栃尾消防署の方々
 加えて婦人防火クラブはJA(農協)の 婦人部をかねているので、半蔵金地区という市内で最も被害 のひどい山奥の地域へ、炊き出しをして届ける活動も行っています。
 とはいえやはり地震に対する心構えがなかったので驚いたこ と、しかし避難に関しては迅速に行動できたこと、7・13水 害で地盤が緩んでいた地区は地震でさらに崩れたりと、水害の 時の影響や教訓が地震でも現れたこと、そして年内はずっと余 震がつづいて落ち着かなったということです。
 婦人防火クラブのみなさんは、やはり普段か らの顔の見える 関係、仲良くくらしていくことの大切さを訴えておいでです。 近隣との情報共有が安心感を与えます。また、まずは家を守ら なければならないという現実のなかで、離れていても家族の電 話がとても勇気を与えてくれたことや、高齢者のいる家庭で、 避難をうながすよう説得することの難しさや、たとえばお孫さんに、逃げないとだめだよ、といわれ ると効果があるなど、災害を体験したみなさんならでの、生のメッセージをいただきました。


歩道の積雪

住宅地の積雪

*これからは長岡市に入っての活動へ
 ところで長岡市のホームページによると、2月5日午前9時現在の栃尾消防署周囲の積雪は163 cmとなっており、新潟県のホームページでは、雪害により栃尾でも一部損壊1軒、床上浸水1軒、 軽傷者3人の被害がでています。栃尾消防署へお電話させていただいたところ、幸い栃尾の積雪は例 年並であるとのことですが、まだまだ雪の季節は続きますので、気の張る毎日でしょう。
なお今年の雪は、昨年の19年ぶりといわれる大雪よりもさらに大変なものとなっており、新潟県全 体の被害は、死者21人、重症100人、軽症152人で、全壊1軒、半壊126軒、床上浸水3 軒、床下浸水15軒となっています(2月3日10:00現在)。
さらに消防庁のまとめでも(1月18日現在)、この冬の雪による人的被害は死者102名、重軽傷 者834名の被害が出ています。

表―人的・住宅被害(平成17年12月以降) (消防庁調べ:1月18日9:00現在)

        
道府県人的被害家屋の被害
死者重症軽傷全壊半壊一部損壊
北海道48132   
青森県3264
岩手県
秋田県164810276
山形県10078  10
福島県232725
栃木県
群馬県18
新潟県1679130
富山県4054
石川県1112
福井県14 3310524
長野県 36 61 10
岐阜県 16 35 17
愛知県
滋賀県188
京都府87
兵庫県41
鳥取県62
島根県313
岡山県16
広島県2310741
山口県
合 計1025228601,633

写真は小千谷市塩谷地区の様子
-芒種庵関係者ご提供

写真は小千谷市内の仮設住宅
-芒種庵(*)関係者
ご提供(*ネットニュース1月号参照)

豪雪にみまわれている新潟県津南町の雪の
回廊(撮影:長岡科学技術大学・上村清司氏)

山古志村
(撮影:長岡科学技術大学・上村清司氏)

山古志村
(撮影:長岡科学技術大学・上村清司氏)

従業員総出で雪下ろし・十日町
(撮影:長岡科学技術大学・上村清司氏)


長岡市消防本部高野消防指令
 栃尾を訪ねる前に、長岡市消防本部でもお話をうかっていま す。55人体制の長岡市消防本部では、震災当日は119番が 鳴りっぱなしで、火災も6件発生。山間地で通行止めになった 地区には徒歩で救出に向かった場所もあったそうで、緊迫した 様子が伝わってきました。県内80隊・県外179隊の緊急援 助隊として応援に来てくれたそうです。また少しすると避難者 の移送、避難所で体調を崩す人がたくさんでたため病院の移送 など、救急の搬送が多かったということでした。
 自主防災組織は173組織で3万513世帯が入っていて、 中越地震前も、100tの防火水槽を市の東西に一箇所ずつ設 置し、それをろ過する訓練をなども住民が行っていたため、当日はすぐ給水ができる状態だったそう です。
 ただ20年ほどまえまでは婦人防火クラブも活発に活動していたそうですが、仕事をもつ人が多く なり、町内会の婦人会が解散するといったことで、今は休止状態ということです。でも幼年消防クラ ブは3クラブ・約2500人が入って元気に活動しています。
 そこで、栃尾市との合併で栃尾の婦人防火クラブが長岡市にはいっていくことになるわけですか ら、今後も活動を積極的に支援していってほしいことと、せっかく長岡にも幼年消防クラブがあり、 休止状態とはいえ婦人防火クラブの歴史があるのですから、合併を機に、婦人防火クラブの再生や活 性化も考えて行っていただけるよう、日本防火協会から長岡市消防本部の方におはなしさせていただ きました。
 いざというとき大切なのは、やはり最も身近な地域の人や関係機関のつながりです。そして大規模な 災害ではまた、広域での協力・連携も必要となります。
 長岡市消防本部と自主防災会も同様ですが、栃尾の消防関係者と地域はやはり強い信頼関係が築かれ ていることがわかりました。また栃尾市内には14の自衛消防団があるそうですが、特に団結力の強 いところは災害時でもとても強かったそうです。
 豪雪に見舞われた新潟のひとびとは、今も雪とたたかう毎日ですが、栃尾の人々はそれだけに自然の 恵みにより近いところで、ひとびとの助け合いやいたわりの中で生きてきたといえます。この1月に 長岡市と合併したわけですが、今後も、これまでと同様に足元の地域の結びつきを大切にしながら、 さらに広域でのさまざまな人や情報との交流が行われることで、婦人防火クラブの活動がさらに豊か になっていっていただければと思います。

<被災地の小学校と子どもたちのあのとき、そしていま>

マラソンの高橋選手の励ましのメッセージ
が飾られていました
■田麦山小学校(川口町)の場合
*地震直後の様子
 昨年の新潟中越地震の震源地を抱えた川口町に田麦山小学校は あります。小千谷市の中心部から東のほうへ少し山地に入った ところにあり、地震当時の児童数は51名で、1学年1クラス のアットホームな学校です(ヒアリングにうかがった時点では 43名)。
 教頭先生 のお話によると、地震の翌日は文化祭がおこわなれ る予定で、10月23日の夕方はその準備のために10人の先 生方全員と、PTAの方と児童数名が学校に残って作業をして いたそうです。
 そこへ突然の 大きな揺れ!2回・3回と続く揺れに、全員で グランドに避難しました。地域の方たちも避難してきたため、 校庭にテントを張りパイプイスや丸イスを出してきて、一夜を 過ごしたそうです。田麦山のある地区は168世帯あり、学校 のほか、公民館と倉庫がそれぞれ避難所になっていたそうです が、田麦山小学校では、文化祭のために用意していた薪を使ったりしながら、3日間外で過ごしまし た。しかし26日には天気が崩れるということで体育館を解放し、お年寄りや乳児を抱えているひと は視聴覚室へ誘導するといった対応をされています。

 外部の救援に関しては25日に、東京の狛江市からの 救援隊が 最初に入り、仮設トイレや毛布などを運んできてくれ、また2 6・7日ごろからボランティアも少し入ってきたそうです。電 気が使えなかったものの、水は山の湧き水を利用できたりと、 地域内でなんとか必要なものはまかなって行ったそうです。 こういうときは、やはり普段のコミュニティの協力や、地域 の もつ資源が役立ちます。


*子ども達と一緒に・・・
 一方、子ども達もいろい ろな変化にさらされました。幸い児童1名が指を骨折した以外は、大きな ケガなどはなく、最初の4~5日は食べるのに精一杯の状況だったそうです。
 しかし、学校に避難所としての居住スペースができると、子ども達は時間をもてあましてしまい、に もかかわらず保護者の皆さんは生活を立て直すのに忙殺されていたため、子ども達は生活習慣がみだ れて不眠になるといった状況も発生してしまいました。
 そこで、担任のみなさんには子ども達の言い分をじっ くり聞 くようにうながし、また、学校再会を11月8日とするよう指 示がきたことから、地震から9日ほどたった11月2日から は、教室にきちんと登校し、生活に張りをもたせようと教育的 活動を再開し、日記活動と、それから児童達自らが、自分達で も役に立つ活動をしようと発案し、清掃ボランティアに取り組 んでいます。教頭先生は、児童達もみんなで集まって一緒にな にかやりたい、そして大人の役にも立ちたいと、そんな思いがあったのでしょう、とおっしゃってい ました。
 学校が 始まってからも避難所や校庭に建設された仮設住宅から通ってくる児童が多くいたため、登 校時はきちんとランドセルを背負わせる、授業の時間内には避難所へはいかない、救援物資は授業時 間内には配らない、といったルールも決めて、日常生活を取り戻してく努力をされています。
れて不眠になるといった状況も発生してしまいました。

田麦山小学校校庭に建つ仮設住宅
 また、子ども達に元気を出してもらおうと、感謝の気持ちを 書く活動や、年末にはクリスマスコンサートを行うなど、さま ざまなイベントも行っています。
子ども達の心のケアについては、 担任の先生方が様子をみるよ うにしながら、児童と保護者の両方にアンケートをとったりし ているそうです。また災害復興加配で、今年度は先生が2名増 えて、12人体制で子ども達の学校生活を支えています。子ど も達自身が、地震のことを振り返り、口にすることで、自分の中で整理され腑に落ちるようにしてあ げることが大切ということでした。

■吉谷小学校(小千谷市)の場合
*地震のときは文化祭と記念行事を終えた直後
 関越自動車道小千谷ICの少し南にいったと ころ、平地の比較的安定した場所に建つ吉谷小学校を 訪ねました。吉谷小学校は児童数が現在92名で、教員は復興加配の1名を入れて、11名の先生方 が毎日がんばっておられます。
 2004年10月23日の震 災の日は、吉谷小学校の文化祭と130周年記念の祝賀会があって、 学校近くの施設でのお祝いを終えた先生達は、式服のままで小学校へ戻って戸締りの準備をされてい たそうです。そこへ5時56分、最初の激震が襲います。ドンッ!と大きな衝撃が走ったあとに大き い揺れ。その後も余震が幾度も襲い、恐怖にさらされるなかで、学校の向かい側にある家屋が倒壊し ていることがわかってきたり、近所の人たちが避難してきだします。
 その後、続々と避難者が集まりだしたため、とにかく休める場所をつ くらねばならないということ で、体育館からテントを取り出そうとしましたが、校舎と体育館のつなぎ目が崩れていて入り口から は入れないため、先生方はガラスを割って中に入り、幕付のテント2張りを避難してきた人たちと一 緒に設置しています。この日だけで100人ほどがテントや車で過ごしました。

*学校再開と心のケア
 最初の3~4日は学校 職員がすべて避難生活のお世話をしていましたが、これでは学校再会のための 仕事が全くできません。そこで学校側から、自治会組織を生かして災害対策本部を立ち上げてもら い、生活に必要な物資の調整などを一緒に行っていく体制を作っていきました。吉谷小学校の児童も 15・6名が学校へ避難してきていたそうです。
 そして28日になって先生方は学校再開の準備に 入っています。11月8日が一斉に学校再開する日 となり、それまでは避難所に避難している児童への訪問、個別の家庭訪問を行っていきました。そう やって児童の様子をみていくと、田麦山小学校とおなじように、日中子ども達だけで過ごす時間が多 いため、生活習慣が乱れてしまっているようでしたので図書館の本を集めたりして、避難所で学習活 動も行っています。
 10月29日からは 、秋田・静岡といった県外の自治体から応援の職員を交替で派遣してくれて、こ れが先生方にとっては大変大きな支援となったそうです。11月20日には避難所も解消へ至りまし た。
 心の ケアについては、当初の混乱が過ぎたあたりから徐々に、ちょっと様子がおかしいかなと思われ る児童が見受けられたため、担任や養護教諭のところへ来た児童に、聞き取りをしてもらったとこ ろ、ニーズがあることがわかってきて、早期から心のケアにも取り組まれています。今もカウンセリ ングは継続しているそうで、たとえば夏前に、もしかすると保護者にもカウンセリングが必要なので はないかと話し合っていたところ、夏あけに県が心のケアのニーズ調査を実施し、そこでやはりカウ ンセリングを受けることになったケースがあったそうです。また今後もケアが必要だと思われる児童 が何人かいるそうですが、職員対応を中心に適宜カウンセリングを受けるようにしながら、見守って 行きたいと先生はおっしゃっています。
 ただ、校長先生も他の教職員のみなさ ん自身も、被災者でもあります。しかし地域の人たちの避難 生活から、児童の心身への配慮、学校再開へいたるまで、ご自身の家庭が被害を受けていても十分に 家族への手当てもできないような状態だったことでしょう・・・。このような先生方の負担を、被災 直後の段階から可能な限り減らしていけるよう地域と学校が事前に話し合っておくことも、これから の地域防災活動・避難所運営における、重要な視点の一つといえるでしょう。
 ★田麦山小学校も吉谷小学校も、ホームページを開設し、当時の様子や今の様子を伝えています。ど うぞそちらも小学校名で検索してご覧になってください。

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