平成17年度九州・沖縄ブロック婦人防火クラブ幹部研修会
が、去る11月24日(木)に熊本県山鹿市の国指定重要文化財
「八千代座」において開催されました。
この研修会は熊本県婦人防火クラブ連合会(会長 三浦貴子
氏)と財団法人日本防火協会の共催で開催され、九州・沖縄ブロック各県の婦人防火クラブ代表者や熊本県内各地の婦人防火
クラブ員等約160名が参加しました。
主催者等のあいさつのあと、消防庁国民保護・防災部防災課
の所健一郎地域防災係長から「地域防災と婦人防火クラブ」と
題しての基調講演が行われ、住宅用火災警報器の設置義務や昨年発生した様々な災害における消防や
自主防災組織・婦人防火クラブ等の活動状況を写真も交えてのスライドで紹介していただきました。
併せて今後婦人防火クラブに期待される活動等についてのお話をいただき、新潟中越地震・水害な
どの大規模災害での活動状況などの内容に参加者達は大変興味深く、講演に聞きいっていました。
その後、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター 特認助手(当協会刊「婦人防火クラブリ
ーダーマニュアル(Ⅰ)作成委員)菅磨志保氏により「災害が来たら、災害が来る前に~地域防災力
の向上をめざして~」の講演が行われました。
阪神・淡路大震災の経験と教訓からの地域防災の推進や新し
い仕組み、地域防災力の向上に向けて、災害・防災をトータル
に捉える「減災サイクル」について、これからの地域防災活動
に向けて、「非日常」と「日常」をつなぐ地域防災活動の視点
と手法についてなど、実際の活動や具体例などを、スライドや
映像を使っての講演に、参加者達は自分達の地域で災害が起こ
った際の活動指針となったことと思われます。そして、人と未
来防災センター監修による震災発生により都市基盤が崩壊して
いく阪神・淡路各地域の様子の再現CG映像では、その被害の
大きさに、改めて災害被害の恐ろしさを学んでおりました。
また、今回の会場である八千代座の舞台を使い、山鹿灯籠踊りが披露され、伝統の踊りの素晴らし
さに会場からは大きな拍手がおこりました。
休憩後、「地域に暮らす障害者(災害弱者)の立場から望むこと」として、熊本県点字図書館館長
西田洋一氏、NPO法人ヒューマンネットワーク熊本事務局長 友村年孝氏から講演をいただきまし
た。障害者の現状や、行政や周囲の方々に対する要望などが当事者の視点から語られることにより、
災害弱者に対する防災体制の確立の重要性を実感しました。
研修会1日目最後に、玄海島婦人自衛消防隊防火クラブ隊長
松田咲子氏、副隊長 林珠理氏のお二人により「福岡県西方沖
地震について」と、山鹿植木広域行政事務組合消防本部 朝
倉宏昭氏により「防災コミュニティー」と題しての事例発表が
行われました。そのうち、玄海島婦人自衛消防隊防火クラブの
お二人から当日発表された体験談のご提供を頂きましたので下
記にて掲載いたします。
夕方からは交流会を開催し、各県・各地域間で情報交換を行
い、交流を深めました。
なお、当ブロックの次年度の開催県は佐賀県と決定しており、同県の女性防火クラブ連絡協議会時
津凉歌会長より、交流会において「佐賀県でお会いしましょう。」との挨拶が行われております。
翌日25日(金)には、熊本県立装飾古墳館へ施設見学に向かい、公共施設の防火対策、火災時の避
難誘導についてなどを見学されました。
2日間の短い日程でしたが、講演・施 設見学等を通じて防火防災知識の向上及び各県・各地域間の
連携の強化が図られ、今後の活動や取り組みの上でも大変有意義な研修会となりました。
去年の3月20日日曜日午前10時53分、福岡県の西方沖で震
度6弱、マグニチュード7の地震がありました。地震について
詳しい専門家の方の話によると、実際には震度7相当だったそ
うです。私達が住んでいる玄界島は、その中でも特に被害が大
きく、家の全壊、半壊また、道路の陥没、損傷など見るも無惨
なものでした。まさか自分達の身に、このような地震が起きよ
うとは思ってもいませんでした。
その日私は義理の姉の家にお彼岸の中日ということもあり、
親戚の人達と一緒にお茶の用意を手伝っている最中でした。そ
ろそろ、お昼の支度を始めようとするその時でした。いきなり、「ゴオー」という地面から突き上げ
てくるようなものすごい音がして、小さな揺れを感じ、「地震」と声を上げた瞬間、激しい揺れに変
わっていきました。立っていることさえも出来ず、床に這いつくばっていました。しばらく経って、
顔を上げて周りを見渡してみると、家財道具、食器棚ありとあらゆるものが倒れ、食器類などが、あ
たり一面に散乱していました。このまま家の中に居ては危ないと思い、とにかく外に出ることにしま
した。自宅はどうなっているのか、母、兄弟、親戚、他の人達は大丈夫なのか心配で、自宅に向かっ
て走っている時でした。その日漁に出ていなかった男性の消防団の幹部の人達が、津波が来るかもし
れないので、上の方に避難するよう必死に呼びかけていました。その指示で、住民全員一旦、小中学
校などに避難することになりました。漁に出ていた人達も玄界島の状況を無線やラジオで知り、漁を
中断して帰ってきました。玄界島に残っていた男の人達と漁から帰ってきた男の人達、レスキュー隊
の方達が主に、お年寄りや子供達が下敷きになっていないか、ちゃんと無事でいるかどうか救助にあ
たっていました。
玄界島は人口が約800人余りという小さな島ですので、島の住民のほとんどが顔見知りということ
もあり、近所に誰が住んでいるのか、住民全員が把握しているので、どこどこのおじちゃん、おばあ
ちゃんが見当たらないと思ったら、皆が協力し合って、足腰が不自由で歩けない高齢者を担架で運ん
だり、おんぶしたり、学生の人達も手伝っていました。主人や他の人からの話を聞くと、男性の消防
団の方達や漁業組合の従業員の方、役員の方達が、民家を一軒、一軒回って、ガスの元栓を止めた
り、電気のブレーカーを下ろしたそうです。このような努力と連携プレーが、二次災害を防ぐことが
できたのではないかと思います。これがあと、一時間遅くお昼の時間帯だったとしたら、火災が起
き、死者やケガ人が続出していたかもしれません。二次災害がなかったのが、何よりの救いだったと
思います。
地震直後 、小中学校に避難してしばらく経ってから、公民館に全員避難することになりました。私
達婦人消防ではお昼前ということもありましたので、まず食事をされていない人がほとんどだろうと
いうことで、ごはんを炊いてあるお宅はないか訪ねて、持って来れる人は炊飯器のまま持ってきても
らいました。それをおにぎりにしてお年寄りや子供達を優先に配ったり、水分を補給しなければいけ
ないので、お店の店長さんに頼んで、ミネラルウォーターやお茶類などを、あるだけ全部出してもら
いました。自衛隊の方達も次々と到着され、市の方から、九電記念体育館(博多)の方へ避難するよ
う要請があり、午後5時には玄界島から住民全員、着の身着のままの姿で市営渡船に乗り込み、九電
記念体育館へと向かいました。その日の夜から九電体育館での避難所生活が始まり、4月26日までの
約1ヶ月ちょっとを過ごしました。
この避難所の生活の中で、私が感 じた事は、県や市の災害に対する対応がものすごく早かったこと
や、自衛隊の方達による手作りのお風呂を作って頂いたこと、また色んな方達による演奏と歌、踊り
は精神的につらく落ち込んでいる私達の心が癒され、どんなにか励まされたことでしょう。ボランテ
ィアの方達による炊き出し、マッサージ、県内県外からの物資等や義援金など、一つ一つ上げるとき
りがないほどです。私達の為に、こんなにも多くの方々が取り組んでくださっている姿を見て、感謝
の気持ちで胸がいっぱいになり、自然と涙が溢れて止まりませんでした。
私はこの地震を通して、失うものの大きかった分、人というもののあり がたさや、相手を思いやる
心、助け合いの精神は今まで以上に強まったと思います。人は周りの方達に支えられて生かされてい
るのだと身にしみて考えさせられました。これから、復興に向けて、婦人消防でも火災などの消火訓
練だけでなく、地震が起きた時の対処の仕方なども同時に考えていかなければいけないと思いまし
た。常に感謝の気持ちを? 鑚\?l?忘れずに取り組んでいきたいと思っています。
3月20日地震当日私は公民館の当番で事務所のソファーに
座っておりました。そしてあのゴオ~というものすごい音がな
り、揺れが始まりました。
最初何が何だかわからずただぼう然となり、ソファーにしが
みついていました。そのうち、そこにおいてあるロッカーが
次々と倒れガラスは飛び散り、それで我にかえり「地震?まさ
か!こういう時、どうすればよかった?」と自問自答し這うよ
うに机の下に身を小さくしてかくれました。
その間「あっ、もうだめだ、建物の下敷きになって死ぬ。家
族もみんなもだめだろうなあ」と何度も何度も思いました。激しい大きな揺れがおさまると同時に家
族の安否が気になり自宅へと向かいました。しかし、毎日通っていた道路は石垣がくずれふさがり悲
惨なものでした。息を切らし自宅玄関を開けると同時に上の娘の名前を大声で叫びました。
「はーいっ」という娘の声が返ってきたとたん、安心と同時に93歳のばあちゃんのことが頭によぎ
りすぐに部屋へと急ぎました。娘はタンスの下敷きになっているばあちゃんを母と2人で一生懸命助
け出そうとしていました。その時やはり高齢者が犠牲になるのは、身にしみて実感致しました。
ばあちゃんをタンスの下から助け出し、おんぶしたものの急いで長い階段を上り自宅へ向かった
為、息は途切れ余震もあり足元はガタガタでとても恐ろしかったです。まずは、近くの神社へ避難し
ました。その間も何度も余震がある中、近所の人達の声かけ安否確認等、みんなが思いやり、一生懸
命でした。それから公民館へと避難場所を移動しました。公民館では、防火クラブとして何か出来る
ことはないかと自ら集まりました。食料や水等の飲料水の呼びかけ、子供と老人に食事を配ったり人
数確認にあたったり、水洗トイレへの井? 鑚\?l?戸水の運搬等に動きました。
もし、私が防火クラブに所属せず一般住民であったなら、ただ家族のことば かりを気づかい周りの
手助けが出来ていたかどうかはわかりません。防火クラブに所属していたからこその責任感という気
持ちが、こういう行動として表れたのだと思います。
島民全員が生存できたのも地震の時間が午前中であったこと、周りとのコミュニケーションがとれ
ていて島民全員が一致団結していること、そして日頃から「自分の家から絶対火を出さない」という
強い意識を常に持っていることだったと思っております。これから地震はどこでおきてもおかしくな
いという意識と日頃の防災避難訓練、周りとのコミュニケーション、言葉かけ、情報伝達は重要なこ
とだとあらためて思います。
今、家族はかもめ広場と玄 界島の2つに分かれて暮らしておりますが、沢山の人達からの激励、
色々な物資が寄せられております。この世の中物騒で怖い事件が多い中、こういう人の優しさ、思い
やりにふれ、ありがたく感謝しております。私達は地震でなくしたものは、とても大きいですが得た
ものも大きいものがあります。それは、人の思いやりの心です。この全国からの沢山の励ましの心に
感謝しながら、島の復興にむけて島民の安全の為防火活動に頑張っていきたいと思います。